僕が通っていた高校は2年生になると自分でひとつのテーマを決め、一年かけて調べ上げ、論文にして原稿用紙50枚にまとめるという課題がありました。
その時僕が取り上げたテーマは何故か勝海舟。なぜ歴史物にしてしかも海舟にしたのかもう思い出せないのですが、子母澤寛の小説『勝海舟』(確か全6巻)を買い込み読み始めました。しかし、これだけでは単なる読書感想文になってしまうと、途中から海舟の父親勝小吉の自叙伝『夢酔独言』や海舟晩年の様子を書生が書き綴ったとされる『氷川清話』なども参考資料として読み込みました。
小吉の自叙伝は強烈な作品で、なにしろ「自分みたいなデタラメな人間はいけないからのちのちの子孫のためにこんな人間になってはいけないよと戒めのために書き残す」なんてくだりがあるくらい乱暴な内容です。
幕末の難しい舵取りを幕府の命運かけて任されたとき、幕臣も薩長もないとこれからの日本をどうするかに思いを巡らした勝海舟。そんな独自の価値観を持って腹を決めて事に係ることができたのは、こんな迫力のあるお父さんを間近で見ていたからなのだと高校生の僕は一人納得していました。
歴史の表舞台から降りた後の海舟は、公の仕事をこなしつつ、元幕臣たちの再就職先を斡旋するために奔走し、また徳川家や慶喜公の名誉回復にも尽力、晩年は赤坂の氷川で徳川幕府所有の船舶などの帳簿付けなどをして生涯を過ごします。
若い頃、剣術で相当に鍛錬した身体は生涯丈夫だったようで、要職についてからはほとんど運動らしい運動はしなかったようです。
『氷川清話』のなかで、書生が「先生、たまには少し体を動かしたほうがよろしいですよ」と言うのを海舟は全く意に介さず、「俺にはこれがあるから大丈夫だ」と言って自分の刀を指さしたというくだりがあります。海舟は、自分は肩が凝ると自分の刀でちょっと肩の皮膚を切って血を出して凝りをほぐすのだと言っています。
これには諸説あり、本当のところは専用の鍼を持っていてそれで切っていたという記述もあります。これは「刺絡」というりっぱな鍼治療ですので、海舟にはそのくらいの心得があったことになります。その資料によりますと指先などにも鍼をしていたとありますから、だとするとかなり本格的にツボも知っていた可能性があります。
同時代の徳川慶喜も徳川家将軍としては最長齢の77歳(大正2年)まで生きていますが、海舟も76歳まで元気に生きています。慶喜は今でいう健康オタクで、ウォーキングなどを日課にしていたとそうですが、海舟はそういったことよりも鍼治療を自分の健康法として選んでいたようです。
亡くなるまで元気だった海舟は、その日の朝風呂に入って、そのあとにブランデーを煽り、意識を失って脳溢血で亡くなったと伝えられています。まさにピンピンころり。最後もどこか父勝小吉の面影というか無法ぶりが感じられるものでした。ちょっとかっこ良すぎですね。
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